異国情緒あふれる街・コザ。最近では、アメリカンな雰囲気と特色ある歴史が注目されていて、修学旅行のコースとしても人気だそうですよ。基地の門前町として発展してきたゲート通りを、沖縄県広告美術共同組合顧問の大城さんに紹介してもらいました。
ゲート通りといえば、横文字の看板や外国人経営者による店舗が並ぶ独特の雰囲気が特徴ですよね。夜の街を煌びやかに彩るネオンサインは、基地で暮らす外国人客を相手にした「Aサインバー」が盛り上がっていた1960年代から盛んになったそうです。
アメリカンな雰囲気バツグンのネオンサインですが、アメリカ人が沖縄のネオンサインを見て、その違いに驚くことがあるそうですよ。何だと思いますか?土地が広いアメリカではネオンサインは横型がほとんどだそうですが、沖縄では縦型の看板が多いのです。スペースを取らないように考えられた沖縄ならではの工夫ですね。また、三角型というデザインは沖縄ならではなんですって。正面から見ると、手前が細くなった三角の看板で、台風銀座である沖縄でも強風に強い形なんだそうです。そういえば、昔ながらの沖縄の店舗は、ペンキで壁に直接店名を書くスタイルが多いですよね。これも台風対策のひとつ。
現在のゲート通りのネオンサインは、LEDに変わったりと昔ながらの看板は少なくなってきているそうです。けれども新しいコザの街づくりとして、英字看板やネオンサインの推奨・支援をしていて、アメリカ文化を感じさせるデザインの街灯や消火栓を整備しているそうです。大城さんたちもニューヨークやニューオリンズに視察に行き、メンフィス通りをお手本にした新しい街づくりを計画しているそうですよ。「1960年~1970年代の華やかなコザの街を蘇らせながら、昔よりもカッコイイ街にしていくよ」と大城さんは話していて、激動の時代を生き抜いてきたゲート通りがどのように変化していくのか楽しみです。
山川交差点から鳥堀交差点までの県道29号「龍潭通り」を琉球王朝時代のお姫さまになった気分で歩いてみました。この通りは、ゆいレール「首里駅」から首里城公園に続く道で、徒歩や自転車で町を散策する観光客も多いエリアです。
まず目を引くのは、通りの名前にもなっている「龍潭」ですよね。首里城公園の北側にある「龍潭」は1427年に造られた人工の池で、周囲416m、面積7575㎡(出典/首里城校公園公式サイト)。かつては、魚が多くいたことから「魚小堀(イユグムイ)」とも呼ばれたそうですよ。今でも魚や鳥たちが生息していて、優雅に泳いでいる姿を目にすることができました。
当時の「龍潭」では、尚巴志が中国からの使者である冊封使を歓待するために、ハーリー(爬龍船競漕/はりゅうせんきょうそう)を見たり舟遊びなどをしてもてなす「重陽の宴(ちょうようのえん)」が行われていたですって。通りから見ると、「龍潭」の向こうに見える首里城の朱色が青空に映えてとてもキレイ!夜には首里城がライトアップされ、ロマンチックな雰囲気を楽しめますよ。
現在の龍潭通りは道路拡張工事が進み、歩道は石畳道に整備されて広くなり、とても散策しやすい雰囲気です。首里城公園を中心とした世界遺産を有する、歴史的・景観的にも重要な地区のため、通り沿いの建物の赤瓦葺きや石垣などへの助成を行い、古都首里の城下町にふさわしい沿道の景観づくりを推進しているそうです。那覇市立城西小学校や郵便局、交番などの公共施設はもちろん、病院やカフェ、コンビニ、レストランなどの店舗にも赤瓦をあしらった琉球モダンなデザインの建物が並んでいます。
第二次世界大戦で町のほとんどが焼失した首里ですが、龍潭通り沿いには、戦前から残る首里教会や三司官屋敷跡の石垣など、当時の雰囲気を感じさせる史跡も残っています。琉球王朝時代からの首里の魅力を今の時代とうまく融合させながら、首里ならではの町づくりが進んでいるのですね。
高台に位置する首里は湧き水が豊富です。琉球石灰岩の地下から湧き出た水は、カー(井戸)やフィージャー(樋川)で受け止められ、今でも多くの史跡が残っています。そのひとつ「宝口樋川」に足を運んでみました。
ゆいレール「儀保駅」のほど近く、「まさかこんなところに!?」と思うほど交通量の激しい通りから一歩中に入ったところにありました。驚くほどたくさんの水がこんこんと湧き出ていて、触ってみるとヒンヤリ冷たいです。樋川の周りもキレイに掃除されていて、昔から人々の信仰の対象や涼を取る空間になっていたというのも納得の雰囲気。地元の方にお話を伺うと、水道が整備されていない頃は、ここで洗濯をしたり、水を汲みに来たりしたそうですよ。この豊かな水が、首里の人々の生活を支えていたんですね。
「宝口樋川」のすぐ近くに、「儀保紙漉所跡(ジーブカビシチドゥクル)」の案内板がありました。かつてこの付近には、儀保川の水を利用して、琉球王府が公に使う上質の紙「百田紙(ムンダガミ)」を作った紙漉所があったそうです。琉球の紙漉は首里を中心に発展し、その技術は離島にも伝授されたそうですよ。現在も儀保町には先人の技術を復元した紙漉所があり、琉球の紙漉の魅力を伝え続けています。また首里には、王家や上級士族が利用する日用品をはじめ、海外への贈答品として紅型や織物、漆器などの工房が数多く存在したそうです。これらは沖縄を代表する伝統工芸として受け継がれ、今でも多くの工房が残っています。
首里といえば、琉球王府の命を受けて「泡盛」の製造を許可された地域「首里三箇(鳥堀町・赤田町・崎山町)」があります。この3つの地域は、高台で盆地になっており、水量も豊富だったそうです。また石灰分に富んだ水質で、麹のカビの発育にも適していたといわれ、酒づくりに欠かせない条件を十分に備えていたそうです。首里に現存する「瑞穂酒蔵」「瑞泉酒蔵」「識名酒蔵」「咲元酒蔵」は、泡盛の約600年の歴史と伝統を背負い、今も首里の酒を作り続けています。琉球王府の命によって生まれたさまざまな伝統工芸や文化が、城下町である首里で発展し、そして他の地域にも広がっていった歴史を垣間見ることができました。
歴史ある古都・首里には多くの観光客が訪れていますが、私たちはこの町に残る歴史に触れる機会はなかなかありませんよね。木の文化である日本に対し、琉球は石の文化に象徴されるそうです。戦争で多くの木造建築物は焼失してしまいましたが、石造建造物は今に伝えられています。首里城の城壁をはじめ、石畳道や石橋、井戸、墓など、首里の町では琉球王国の持つ技術を集めて整備された見事な石造建造物を見ることができますよ。
守礼門のすぐ側にある「園比屋武御嶽石門(ソノヒャンウタキイシモン)」は、国王が外出する際、道中の安全祈願を行った礼拝所で、世界遺産にも登録された琉球を代表する石造建造物です。
そこから緩いカーブを下っていくと、国指定重要文化財「天女橋」が見えてきました。この橋は駝背橋(だはいきょう)というラクダの背のような形をした中国風の美しい姿が特徴。琉球石灰岩の切石を積み上げ、勾欄(こうらん/橋・回廊・廊下などにつけた欄干)は細粒砂岩でできていて、蓮の実が彫刻されています。
首里の石造建造物といえば、こちらも世界遺産に登録されている第二尚氏王統歴代の墓「玉陵(タマウドゥン)」を忘れるわけにはいきませんね。自然の崖壁を掘り、連続した3つの3室が造られています。当時の板葺き屋根の宮殿を模した石造建造物で、棟には尚家の家紋や牡丹・唐草・宝珠などが彫り込まれ、左右袖塔上には陵墓を守護する石彫りの獅子像が置かれています。
続いて、「真珠道(まだまみち)」を歩いてみます。首里城と那覇港を結ぶ主要道路のひとつで、全長約9km。王家の別邸である「識名園」に向かう際にも利用されていたそうです。「真珠道」の大半は戦争で破壊されてしまいましたが、金城町に現存する238mの区間が「首里金武町石畳道」としてその姿を今に伝えています。琉球石灰岩の平石が敷き詰められ、沿道には赤瓦屋根の家や古い石垣も多く残っていて、首里らしい風景が広がっています。琉球王朝時代からの石畳道が戦火を逃れ、首里の人々が城下町としての誇りを持って大切に守ってきたことを実感できました。道の途中には那覇の町並みを見渡せるポイントもあり、ちょっと立ち止まってみたくなりますね。
石畳道の途中を右に曲がると、村ガー(共同井戸)として利用されていた「金城大樋川(キンジョウウフヒージャー)」があります。歴史書によると、17世紀末頃、薩摩で紙漉の技術を習得した大見武筑登之親雲上(オオミタケチクドゥンペーチン)が、帰国後にここの水を使って、沖縄で初めて紙を漉いたと記されているそうです。
石畳道の左側には、「内金城嶽(ウチカナグスクタキ)」とその境内の大アカギ群があります。この御嶽は、ムーチー(鬼餅節)由来の地といわれている場所。樹齢200年以上の6本のアカギがあり、標高は約20m。目の前にただ立っているだけで、不思議なパワーを感じられる神秘的なスポットです。